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Gekkan Dennou Club 147
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Gekkan Dennou Club - 2000.8 Vol. 147 (Japan).7z
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Gekkan Dennou Club - 2000.8 Vol. 147 (Japan) (Track 1).bin
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2000-07-11
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7KB
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211 lines
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
%V%Wまったくあてにならない
%V%W「非」実践的ゲーム制作講座 第1撃
あいはら てつや
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
%V%W序章
最近のゲームは、PCでも、コンシューマでも、X68000初代が登場してきた頃と
比べ、非常に華美で、見た目だけでもうっとりするような時代になったと思う。
が、なんか違和感を感じないだろうか。確かに、ノーウェイトで3Dの処理が済み、
マッピングはおろか、ライティングもシェーディングもハードウェアがこなし、
フォグやら、透過、トゥーンレンダーもこなしてしまうように、描画性能は、い
まだに上がり続けている。数千万テクセルなんてグラフィックカードが一般的な
価格帯のCPU(まあ、あえてPCで言えば、CPUだよなあ)よりも高い値段で、しか
もX68000のメインメモリフル実装の2倍とか4倍もの大容量の高速なメモリを積ん
だ製品が出てくるのを見ると、バーチャルアイドルも、あと5年くらいかなあ、
という気もする(テライユキなんか、まだまだ気持ち悪いが)。
しかし、こうした高性能ハードに支えられた3Dゲームにも、
%V%Wなんかどうも食指が動かない。
個人的には、コンシューマの場合、せいぜい気に入ったドライビングゲームと
かフライトシミュレータ、3D格闘ゲームなどを半年に1本程度購入する程度で、
しかも、そんなに本腰が入らない段階でさっさと切り上げる事も多い。それ以外
にも興味のあるゲームもないではないが、買ったまま封も開けずに放置される
(放置プレイ?)事の方が多い。無論、3Dなんかの場合、視覚的に疲れるという
こともあるだろうが、死ぬほど長時間、モニタの前やゲーセンでゲームしていた
10数年前と比べて、あきらかにゲームに対するモチベーションが下がっているの
に気が付く。特に昨年までの2~3年は、コンシューマではゲーム乱発の時代だっ
たのだが、その頃から「これは!」と思って購入したゲームにもハズレが多く、
というか当たりがほとんどなかった。海外物のネットワークゲームをやっていれ
ば、そうでもなかったのかもしれないが、個人的には電話代にお金を掛けられな
かったのでそれどころではなかった。今考えると多少でもやっとけばよかったか
な、という悔いはあるのだが、個人的な消費で自分の懐具合が破綻するようなま
ねは、できるだけやらない事にしていた。
さて、「ゲームがおもしろくない」という愚痴話を続けるのは簡単だが、あま
りそればかりではなんの果実も得られないのでこの辺で切り上げるが、単に過去
を懐かしむ気持ちから「おもしろくない」と感じているんだろう、という意見も
至極まっとうなツッコミなのだが、どうもそればかりではないのではないか、と
思っている。さらに結論は見えている気もするが、その前にもう少しつっこんで
ゲームというものを考えてみることにしよう。
%V%W遊ぶとはどういうことか
いきなり哲学っぽい見出しだが、人間が遊ぶというのは、どういうことだろう
か。哺乳動物や鳥類は、観察していると、我々人間から見て、遊んでいるかに見
える行動を取ることがあるが、その行動を逐一生物学的に検討する余裕もないの
で、すっとばすつもりだが、おそらく身体的なリラックスや快楽原理に基づく
「運動」が主であり、「体を動かす事が気持ちいいからやっている」のであろう、
という事で単純化しておく。遊んでいるように見えるのは、人間側が動物を擬人
化して解釈しているからに過ぎない。
で、ここでは、人間のみ扱う事にしよう。遊ぶという事は直接的な社会的物理
的な生命維持活動とは、直接的に関係のないところで行われる、人間サマに特有
の行動だ(ということにしておく)。もちろん、この遊ぶという行動は、動物が
するような本能的な行動である事もある。つまり、身体維持のためにリラックス
したいという欲求であるとか、緊張状態をほぐして次の生命維持活動(生産活動
や食事などの個体維持、子づくり、子育てなど)に備えるという側面もある。が、
普段はそのような事を意識的にはっきりと認識して遊んでいるという事はほとん
どないだろう。遊びたいから遊ぶ、したいからする。そういう精神状態(という
か、仕事&勉強モードから遊びモードに切り替わっていないと)でなければそも
そも遊びとは言わないだろう。
また、人間の場合、身体の快楽以外にも快楽があることを認識している。動物
にはおそらくそういう機能は備わっていない。これは神経系の発達と相関してお
り、まったく無原則なわけではないだろう、と考えられる。ただ、なんらかの動
物的、本能的な快楽と結びついているからこそ、新しい快楽を快楽と認識してい
るのだろう。ここでは、全然系統だった見方はしていないが、「人間は、一見生
命活動とは無縁で無駄ともいえる、遊ぶという行動をとる」ということだけで先
に進む。
さて、人間は能動的、主体的に遊ぶ。一見無駄と思えるような事にも自らの意
志、精力を傾ける。もちろん、生命維持に支障のある状態の時は、遊ぶための客
観的条件がないということであり、いくら遊びたくても、遊ぶという行動を実際
にとることは実際には困難である。100%不可能とは言えないが、「三度の飯よ
り●●が好き」という言葉が真であるためには三度の飯が食える状態にあるのが
必要条件だ(まれにそうでないヒトもいるかもしれないが、例外はどこにでもあ
る)。
また、逆から見ると、生命維持に必要な時間が減少すると、つまり、自由な時
間が増えるに従って、遊びの内容もより高度に、また、掛けられる時間も長時間
になっていく。ただ、現実には、労働負荷は、過去よりもむしろ高かったりする
こともままあるので、無意識のうちにそのストレスを取り除く事の方に重点が置
かれるだろう。そういう状態で「むかつくようなバランスの対戦」なんかした日
には、ストレスも返ってたまるだろうし、とてもじゃないが遊んだ気分になれな
い、という事になるだろう。ゲームといえども現在の経済を含む広い社会状況と
無縁とは言えないだろう。本当は、時間を掛けてそのあたりを掘り下げてみたく
もあるのだが、それは今後の個人的なWeb上での課題にしておこうと思う。
コンシューマにおいては、やはりきちんと練られていないものが多く、設定面
では、とてもじゃないが大人が遊ぶのに耐えない貧弱な描写力(絵のことではな
く、物語であるとか、バックボーンとする世界の事)であるとか、ゲームとして
表現する側がなにがやりたいのかわからないのを象徴するような、インターフェ
イス部分のくさり方であるとか、プログラマ側の技術的偏見的制約によるゲーム
の矮小化など、目に余るような状況である。
こうしたなか、このごくわずかの期間に、なんだかダメだなあ…、という状況
が生まれている気がする。発展していっていないというか、停滞しているという
か。
コンシューマは数年ごとにマシンが変わり、その結果技術に関しては蓄積のや
りなおしや、新しいマシンの使いこなしに時間がかかり、「新しい遊び」がでて
きていない状況がこのところ繰り返されている。この状況では、結局最後は「ゲ
ームはパソコンに戻ってくる」事になる可能性もある、と言えるかもしれない。
このところのPCの高性能化を見ていると、この高性能化が一般に浸透し、ハード
的には、従来のゲームにとっては過大なパワーを持て余すようになった時点で、
新たなリアルタイムOSとともに本当の意味で新しいゲームが産まれる、豊穣なる
土壌ができてくるのではないか、などと夢想する。パワーを持て余す状況などあ
りえない、というのが現実的な見方かもしれないが、WindowsやMacOS以外であれ
ば、それこそ持て余すほどのパワーを持つ事の可能性も否定できない、ようにも
思われる。(序章:未完)
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(EOF)